ジブリ考察

ジブリ映画『君たちはどう生きるか』は、現代アート。

君たちはどう生きるか=現代アート

今でこそ、たくさんの画像が出回っていますが。

公開当初は前情報は一切なし。画像も一切無し。主人公の名前や登場人物も、時代も、設定も、物語のあらすじも、何もかも「わからない」状態で観ることになりました。

公開されていたのは、唯一このポスターの絵だけでした。

君たちはどう生きるかのポスター (1)

そんな「何もわからない」状態で鑑賞した本作品。

観ている最中から「なんとアーティスティックな映画なんだ!!」と驚きと感動を感じていました。

この記事では、もうネタバレあり前提でわたしの個人的な感想を書いていきます。

これを観て、あなたは何を思い出すか?

わたしはこの映画を通して、ずっと、こう問われているように感じました。

もしくは「何を思い出させる?」と。

この映画は、観た人に個人的な体験や考えを発想させる、思い出させる装置であり、そのように導かれているように感じます。

物語を通じて散りばめられた「観たことある場面」も、それを助ける(導く)ヒントなのではないか?と。

ジブリ映画の「観たことある」感、満載

この映画を観ている間に、ジブリファンなら

  • 「あ、このシーンなんか観たことあるような」
  • 「このキャラクター、何かに似てるような…」

そんなふうに感じたはずです。これは確実にわざとですよね。

例えば、白くて小さい「ワラワラ」というキャラクター。生前の魂のような設定のようですが、これが深い森の中を歩いてるシーンはまるで『もののけ姫』に出てくる「こだま」そっくりですよね。

あとは、ジブリお得意の広大な草原は『ゲド戦記』や10年前の宮崎駿作品『風立ちぬ』を思い起こさせますし、巨大魚の腹を切るシーンはなんとなくこれまたもののけ姫のサンがアシタカの喉元にナイフを突きつけるカットと同じようなカットだった気がします。(少なくともわたしはそのシーンを思い浮かべました)

他にも、異世界側のアリエッティの世界のような可愛いくてごちゃごちゃしたおうちのインテリア、

大叔父が滞在していた楽園のようなお庭は、まるで『紅の豚』のジーナの庭のようでした。

宙に浮く巨石や忘れ去られたような文明(建物)は『ラピュタ』を思い起こさせるし、湖にたくさんいた死人(黒い人たち)はなんとなく『千と千尋の神隠し』の世界観にも通じるものがあります。

そんな風に、ジブリファンにはちょっとわかりやすく「あの映画のあのシーンを思い出す」ようなシーンが散りばめられているように感じました。

思い出させてどうする?

…じゃあ、観た人にそうやって色々なことを思い出させてどうするのか?

…そこに、目的も狙いもないのが、「意味がわからない」ということだと思います。

わたしは実家の仕事も含め人生ほぼ丸ごと「現代美術」の世界に携わっているので、これは自信を持って言えるのですが、あの作品は本当に現代アート作品に似ています。というか、もはや現代アートですね。

作品を見た時に、見た人の心の中に何かが生まれる。いや生まれると言ったらちょっと大袈裟か、、何かを「思い出す」その経験が、なんとなく今の自分と繋がったりして、自分の中で新しい経験が生まれる。

でもその経験は他の人と共有できるものではなく、あくまでも自分の中だけに存在している。その感覚を言語化することで失ってしまうことや、過度に文字説明の中で定義付けしてしまうことで何かずれてしまうことを恐れて、全く他者とシェアしない人もいる。それでも作品からなにかを得たことは確かだから、その人はただ言う、「この作品、自分は好き」と。

現代アートといえば、「よくわからない」でお馴染み。笑

私も生まれてからずっと現代アートの世界を見てきているけど、一見ではわからないものはわからないし、説明されてもわからないものも多い。アーティスト自身の物凄く個人的な経験だったり考えを表現したものも多くて、それに共感できないのも仕方ない。どこまで行っても、そういう世界です。

アーティスト自身の幼い頃のなんでもないような体験を表現した作品、

でもなんとなく、「このアーティストの表現するものには、自分は毎回強い印象を受ける」、とか、「作品を見ていると感じるものがある」という時にそのアーティストのことを好きになります。それはもはや「相性」とか「タイミング」の問題。

アーティストも、お客側に必要以上には寄っていかない(寄りすぎるとそれはアートというよりもエンターテイメントになる)から、「気に入ればどうぞ。気に入らなければ仕方ない」と案外アッサリしたもの。(…ゆうて、めっちゃ気にしちゃうアーティストもいますけどね!人間だもの。笑)

そんな感じなので、必要以上の説明はないし、あえて作品での表現以外には何も説明しないアーティストも多いです。

とある有名なアーティスト(彼の作品は今では1点で億越え)は、とっても明るくおしゃべりなおっちゃんだったのですが、親しい友人たちや家族にも、作品のことは一切語らなかったそう。

そんなわけで、あの映画を「巨匠宮崎駿による、現代アート作品(映像版)」とすると、「いやむしろ、現代アート作品にしては結構いっぱいヒントとか置いておいてくれてるし、尺も長いし、映像も美しくて、ありがたい!!!」って感じです。笑

一から百まで全て説明してくれるような「わかりやすさ」こそが価値の現代エンターテイメントの世界に慣れきってしまうと、この映画の意味が通じないことによる歯痒さとか、何が言いたいのかわからないことが、ストレスに感じてしまうかもしれません。

でも、現代アートなら、「アーティストもだいぶ彷徨ってるよね」「そんな中で今の段階ではこの作品が生まれたんだね」ってのがアリなので、許容されます。むしろその「今しかないアーティストの時期」を表現されているってことで価値を感じる人もいますよね。わかやすい例で言うと、ピカソの「青の時代」の絵にしか共感できないって人もいるような。

『盲人の食事』(1903)by パブロ・ピカソ (1)『盲人の食事』(1903)by パブロ・ピカソ 

でも、こんな大金を積んで、しかもたくさんの人を巻き込んで、それでもって自分の表現を追求するのって、どうなの??自己満足じゃないの??」って感じる人もいるかもしれません。

だって、エンターテイメントの世界では、そんなの明らかにNGです。

「客からの評価(=興行収入)」が何よりも大切な世界だし、みんなに大満足して映画館を去っていただくことを目指すし、スポンサーの事情だってあるし。

でも、一度現代アートの世界に目を向けてみると、そんなの全然あたりまえです。

「この珍しい素材を大金積んでしこたま集めて、専門の職人に3ヶ月間かけてずっと磨いてもらって、それをぶち壊して完成しました。」みたいな作品もあって。

その「珍しい素材」だけでも貴重なものだしとりあえず調達に多くの人の協力と1千万円はかかるよね。そんで、専門の職人に何させとんねん!!そんでそれを壊したって…どういうことやねん!!!!みたいな。

もう、「意味わかんなすぎるだろ」な世界です。笑

それでお値段8千万円、的なね。(素材と専門の職人の労働費ものせてんのかな〜と、一般消費社会を生きる者としては計算してしまう)高くても売れるアーティストや巨匠ほど、そういう作品多いです。

しかも、アートはそれだけじゃない。熱に弱い素材を使っている巨大なアート作品は、常に冷房の効いた倉庫で、エアコン台(なんと月10万円超え!)を食い続けながらじゃないと保管(=存在)できないし、

とても手の込んだインスタレーションアートなんて、「じゃあ次はここの展覧会で、ここの会場ね」と決まったら、短い準備期間で何十人もの手で忠実に再現するんです。もうね、「どんだけ無駄な金と労力がかかってんだ!!!」って驚きます。笑

映画の話に戻ると、今回のこの映画はスポンサーをつけずに全てスタジオジブリの責任とお金で制作しているわけだから、「アーティスト・宮崎駿」の表現を突き詰められるわけですよね。

だから、今まで以上に宮崎駿の個人的な部分が大きく露出してくるし、観る人が見れば「おお、こんなに自分の内側を遠慮なく見せつけてくるなんて……やるな!!」ってなるのかも。(わたしはまだ宮崎駿についてそこまで知らないので、まだまだですが…)

例えば、宮崎駿の親とまひとの親には共通点があります。

母親は、病弱で、宮崎駿が幼い(6歳)ときに脊髄結核を患い、それから10年近くを寝たきりで生活していたそう。まひとの母親も、映画中では病院にいて、そのまま火事で焼け死んでしまいます。

その後、1年も経たないうちに父親は母親の実の妹であるナツコと結婚。お腹の中にはもう子供もいる。。この設定も、ちょっと宮崎駿の父親につながっています。

宮崎駿の父親は、大恋愛の末に結婚した妻をすぐに結核で亡くし、周りが心底心配している中、一年も立たないうちに次の嫁(宮崎駿の母親になる人)と恋愛結婚して、周りを行天させたんだとか。これは宮崎駿が生まれる前の話ではありますが、その話を聞いた宮崎はその「父親像」の設定を、この映画の物語の中にも組み込んだのでしょう。

「もし、自分の父親と前の奥さんの間に、子供がいたら…」と、まひとを自分の架空の兄としてキャラクター作りをしたのかもしれません。(だとしたら、一番最後に出てくる父親となつこの間に生まれた子供は、宮崎駿ってことになるのでしょうか)

戦時需要の中、工場を切り盛りして稼いでいたのも共通点として挙げられます。

あまりにも(今の感覚では下品なほど)あっけらかんとした性格で、戦争のことを痛みなく語り(むしろ戦争が起こった方が自分の工場に仕事がくる)、妻を戦争で亡くしてそのすぐ後に妹を後妻に迎え…この映画の登場人物がなんだかフワフワとつかみどころがない中で、あまりにもリアルに、必要以上にグイグイ印象に残ってくるキャラクターです。

そんなふうに、宮崎駿の親の姿がいっぱい描かれているわけですが、それも、ここで表現せずにはいられないほど自分の中に残っていた、ってことですよね。それで何が伝えたいってわけではない、強烈な「印象」があったストーリーを「再現」したというか。

そして、その母親が、なんだか唯一無二の恋人のようになったり、片思いの相手のようになったり…ナツコさんと母親(ヒサコ、異世界ではヒミ)が混ざってたり…マヒトの強烈な、一種異常なほどの執着も、もし「女性」に対する宮崎駿自身の思いや希望や絶望や思い出を少し乗せたものであるのならば(必然的にそうなるわけですが)、やっぱりかなりの自己開示なわけです。

他にも、「映画の中の、母親のあの言動が宮崎駿の過去のあそこにつながっている…」とか、「ナツコへの想いが宮崎駿の…」と謎解きみたいなことをすることは永遠にできるわけで、それも確かに楽しいのだけれど、それだけでは観客はずっと「客」でしかなく、外部の存在でしかないわけです。資料からあれこれ空想したり関連づける事はできても、それは外部に公表されている一部の発言やそれをまとめた文章からしか知り得ない。

それよりも、この作品をアートであるとするならば、観客自らもそこに参加していかなければ。

だから、これを見て、あなたは何を思い出したか?どんな個人的なことと結びついたか?

そういうことをシェアして初めて、なんだかこの作品をより深く味わえるような気がします。

もちろん、他の人にとってはどうでも良すぎるほどどうでもいいことでしょう。

わたしには経験がありませんが、例えば「(出会ってすぐにお腹を触らせる場面を見て)ああ自分も昔、きれいな叔母さんにその無自覚ゆえに無遠慮で異性として距離が近すぎる行動をされて、戸惑ったり、異常に意識してしまったなあ」だとか、

「父親の再婚相手だから、意識しないようにしてたけど異性として盛大に意識しちゃったよなあ」だとか思う人もいるのかも。

打算のもと頭に石をぶつけてわざと怪我をしてるマヒトを見て、そういうことって小さい頃はそれなりに経験がある人も多いのかも、とも思います。

程度は違えど、今3歳と0歳の男の子を子育てしていると、やっぱり同じようなことしますよ。0歳の子が泣き出してヨシヨシ抱っこしてると、それを見て嫉妬した3歳の子がわざとちょっと勢いよく後ろにゴロンと転がって(痛くない程度だろうけど)「頭痛い〜!!!」と大騒ぎして泣いたり。自分が仕事で忙しかったり、かまってあげられない時期ほど、そういう行動が過激化していって、「あ、ちゃんと見てあげなくちゃ!!」って母親として反省することもあります。(見る、ってのは物理的にではなく、ちゃんと意識を向けて向き合ってあげなきゃって意味です)

めちゃくちゃ小さい頃だけど、幼稚園の頃(4歳くらい)わたしも何故か靴下にわざとハサミで穴を開けてましたね。

目が覚めた時に、好きな人(ナツコさん)が自分のそばで看病しているんではなくて、使用人のおばあさんが横に寄り添っていて、一瞬がっかりしたりだとか。笑

…続く。