この記事は、前回の記事の続きです。
これまで、菜穂子がいかに「女性としてやり手なのか」を解説してきました。
二郎と婚約に漕ぎ着けるまでの菜穂子に対して抱くのは、宮崎駿監督が描こうとした「女性の恐ろしさ」と言うよりも、女性的には「憧れ」に近い気持ちです。
それに対して、後半の結核が進む菜穂子に対しては、「憧れ」からは反対の様に見える「共感」も含めた感情に転換していきます。
しかし、前半と後半に共通するのは、「自分にはそうはできない」という、女性としての尊敬の気持ちです。
もくじ
「婚約後」の菜穂子の計算外
二郎との婚約までは、ほぼ(悪い言い方をすれば)「計算通り」にものごとを運んだ菜穂子。
しかし、二郎が軽井沢を去ってからは雲行きが変わります。
「予言」通りの展開に?!
それは、二人が軽井沢のホテルの階段で婚約する直前に、ドイツ人のおじちゃんカストルプが予言したとおり。
「避暑地の恋はすぐ終わる。下に戻る。山の事忘れる」
初めて映画を見た時は、
「え?!このおっさん…このタイミングでそんなこと言うとか、こんな空気読まんことある?!」とびっくりしました。笑
だって、恋の相手である菜穂子の父親が目の前にいるのに言い出すもんだから…カストルプおじちゃんは、二人の恋を応援してないのか??
…と思いきや、プロポーズ成功後は
「おめでとう。彼はいい青年。お嬢さんも立派。この夏、いい夏です」
と。どっちやねん。
映画を通して見ると、「いや、二郎はちゃんと最後まで菜穂子を愛していた」と思うかもしれませんが、それはちょっとうまく誤魔化されているだけで…
実際、山を降りて軽井沢(避暑地)を出たあとの二郎は、菜穂子に対してあまりにも薄情です。
二郎を手のひらの上で転がしていたはずの菜穂子は、次は、「男(二郎)の身勝手さに振り回される女性」としても描かれるようになるのです。
二郎が会いにきてくれない
「二郎の身勝手」とは、簡単に言えば「二郎が、自分のことを忘れてしまうほどに飛行機の仕事に夢中」だということです。
菜穂子は、吐血してから見舞いに来た二郎を送った後、「二郎さんと一緒に生きたい」から、何不自由なく過ごせる裕福な実家から、父親が「寂しいところに一人きり」と説明するサナトリウム(富士見高原療養所)に移ることを選びます。
見舞いの帰りに、菜穂子の父親から菜穂子の容体(どれくらい結核が進んでいるのか)を聞き、「もうそんなに…」とこぼしているシーンがあります。
ここで押さえておきたいのは、二郎は菜穂子の結核がもうかなり進んでいる=死に近いことをちゃんとわかっている、ということです。
しかしその後、二郎は、菜穂子を一度も見舞いにいきません。
仕事では「自主的研究会」を遅くまで主催し、仲間に生き生きと語ります。
責任ある仕事を任され、仕事がめちゃくちゃ楽しいわけです。
徹底的に、仕事>菜穂子
堀越二郎という人間は、婚約したばかりの重病患者の恋人が一人寂しくサナトリウムに隔離されていても、見舞いに行きません。
なぜって、…仕事が忙しいから。
手紙をよこすことはしますが、それだけ。
しかも、その手紙の内容も、それを読む菜穂子の顔を見ればわかりますが…菜穂子のことを気にかけている様子もないのです。
手紙の最初には、こう書いてあります。
菜穂子さま 寒さも日に日に増してきましたが、いかがお過ごしでしょうか。
そして、菜穂子は手紙を嬉しそうに読み進めるのですが、すぐに菜穂子の表情が曇り、とても悲しそうな顔になります。
それもそのはず。その次に続く文章は、
僕は仕事が中々…
映画ではここしか写されていませんが、内容はすぐに察しがつきます。
二郎は、自分の仕事が忙しいということ、つまり菜穂子のところには行けないという言い訳ばかりを書いているのだろう、と。
しかも、手紙の挨拶のあとすぐに話し出すのは「僕は…」と、自分のこと。
ふつう、遠い場所で病と戦っている恋人に書く手紙では、相手のことを一番に気に掛ける言葉が出てきませんか?…それが出てこないのが、二郎という人間。
菜穂子は手紙を読み終わっても、とても寂しそうな顔で寒空と冬の枯れ木を見つめます。
大きな孤独を感じていることが伝わります。
本当にかわいそうすぎる。。
我慢できず、病身で二郎に会いに行く菜穂子
その後、意を決したように、早朝菜穂子は雪の積もるサナトリウムを抜け出して二郎の元に向かいます。
この時、二郎の元には菜穂子の親から電話が入りますが、その時も二郎は「ご無沙汰しております」と言う。つまり、菜穂子だけでなく、菜穂子の親ともずっと連絡をとっていなかったわけです。
名古屋に到着し、三等列車から降りてくる菜穂子。
菜穂子は、自分のワガママで動いていることは自覚しているので、普段自分が使う富裕層向けの二等列車は使わないんです。
ホームでお互いを見つけた二人は、走り寄って抱き合います。
菜穂子は「一目会えたら帰るつもりだったの」と言いますが、二郎は「帰らないで」と言います。
それを聞いた菜穂子が、心底驚いたような表情を浮かべ、そしてとても嬉しそうに笑います。ここの菜穂子の表情の変化は、とても丁寧に描かれています!(絶対に映像で見てほしい!すごい表現力です。)
この時の二郎は、なんと罪深いことをしていることか…。
本当だったら菜穂子はサナトリウムに帰らないといけない。じゃないと病気は悪化を辿るのみ。二郎も、菜穂子に帰るよう言わないといけない。
…でも、二郎は自分(菜穂子)にそばにいてほしいと、一緒に暮らそうと言ってくれる。
孤独だった菜穂子にとっては、本当に本当に嬉しい言葉でした。
そして物語の幸せのハイライトである、結婚式を迎えます。
この時の菜穂子の美しさは、もはや神がかっています。
緊張した面持ちで結婚の儀式を進める二郎を見つめながら、微笑む菜穂子。もう、愛でしかない。
ここから二人の、黒川邸での同居が始まります。
菜穂子は、自分の命を削りながら二郎と一緒にいることを選んだのです。
一体、菜穂子のなにが特別なのか
さてここまで読むと、「結婚前までは女性が主導権を握っていたけど、結婚後は男に振り回されて不幸になり、愛想を尽かす」という世の中ありがちな展開…。
そして菜穂子は「男の身勝手と薄情さに振り回され、惚れた弱みと病気なのに二郎のそばにいられずにはいられない可哀想な女」みたいな認識になりますが…
しかし、そうはならないのが、さすがジブリ映画。
じゃあなにが決定的に違うのか?というと、菜穂子の命がもう短いということ。もっと言うと、「ヒロインが、自分がもうじき死んでしまうことに自覚的」だという点です。
菜穂子の場合は、振り回されるだけではなく、自分で工夫して主体的に二郎の人生に関わっていこうとし、最後までその姿勢を崩しません。
そしてそれは、「彼女自身の命が短いからこそ、できること」なのです。
菜穂子は二郎がクズだとわかった上で愛している
そしてこの時点で、すでに菜穂子は二郎がクズだと十分にわかっています。
サナトリウムの孤独な寒空の下、痛感してきています。
だけど、そんな二郎でも愛しているのです。
「このまま自分がサナトリウムにいても、二郎は絶対にやってこないだろう。むしろ、今まさに、どんどん自分のことを忘れていってしまっているのだろう」
…そう悟ったからこそ、急いで二郎のもとに駆けつけるしかなかった。
そんなクズ男に惚れてしまった自分を悲観することもなく(彼女の人生にそんな時間はない笑)。
逆に、菜穂子が病気ひとつなくふつうに元気な女性だったら、たぶんこんな物語にはなりません。
どこかの時点で愛想を尽かすはずだし、長い目で見たときに菜穂子ほど賢い女性だったら「損切り」するはずです。笑
しかしそれをしないのは、やっぱり今この瞬間に二郎を心の底から愛しているのもありますが、やっぱり自分がもう長く生きられないことをわかっている、つまり「長い目で見る」必要もないから。
自分の人生を使い切って、二郎を愛そうと心に決めているのでしょう。
菜穂子の献身は、菜穂子自身のためでもある
この映画を通して、「菜穂子の献身」はよく語られます。
菜穂子は、二郎のために自分の命を削っている。
それは、事実です。
でも、実は菜穂子は「二郎のためだけ」ではなく、「自分のため」にも黒川邸にとどまることを選んでいます。
飛行機は、二郎と菜穂子の「子ども」
菜穂子は、末期の結核病患者なので、子どもを産むことは現実的ではありません。
当時は妻は子供を産んでこそ、みたいなところがある時代なので、菜穂子も考えたのでしょう。
では、自分に何ができるのか?と。
二郎は、寝ても覚めても飛行機ばかり。
菜穂子と一緒に暮らすようになっても、それは変わりません。
自宅に帰ると大好きな可愛い菜穂子がいるのはもちろん嬉しいし、看病もしないといけないので、家に仕事を持ち帰って夜な夜な仕事を進めます。
ある夜、部屋で二郎は飛行機の設計を進めるのですが、その時に菜穂子は「手をください」と頼み、手を繋いだまま二郎は右手だけで仕事をします。
二郎の設計の仕事は、これまで他のシーンで描かれていた通り、定規などを片手に持って両手で進めます。だから、右手だけというのは本当にやりづらいはず。
でも二郎はそのまま仕事を続け、仕事が捗ってきます。
ここ、たぶん黒川邸時代の中で一番大事なシーンです。
二郎は菜穂子に
「タバコ吸いたい。手を放しちゃだめ?」と聞きます。
それに菜穂子は、
「ダメ。ここで吸って」と珍しく断言。
菜穂子はそんなわがままを言う女性ではありません。でもここでは爽やかなほどバサっと却下。
二郎はそんな菜穂子の気持ちを二郎なりに察して、そのままタバコを吸い始めます。
ここで「結核を患ってる菜穂子のすぐ近くでタバコを吸うなんて!!!」と思う人も多いと思いますが、この時の二人はもうそんな正論では語れないところで動いています。
未来を犠牲にして、今を生きる二人
ホームで抱き合ったときから、二郎と菜穂子の間には「これをしたら、今後どうなるか」という未来への視点が一切なくなります。
そもそも、二人で暮らしていること自体が未来を犠牲にしてるわけなので、そこに目を向けてしまったら破綻してしまうのです。
…さらに考察続く。